曼殊沙華の花が咲き誇る田園風景を過ぎて小さな集落に踏み込むと、坂道の途中にある可愛らしい家が視界に飛びこんでくる。道の向かい側には古くて大きな母屋が構えている。これは都会を離れ、高齢者の目と鼻の先で暮らすために建てた家の物語で、主役は小さな家のほうである。
母屋の前の空き地はさほど広かったわけではない。そこに建てることのできるボリュームはおのずと決まってしまうのだろう。どんなふうに建てても母屋に対しては視界をさえぎる壁のような存在になるのは避けられない。もともとの主である母屋に敬意を表し、少しでも影響を軽減することはできないものかと考えた結果、高さをできるだけ低く抑えることと建築の中央に視線の通る穴を穿つイメージがごく自然に浮かんできたのではないかと思う。そのイメージは、設計者の力んだ発想ではなく、この場所がひそかに設計者に仕向けていた予定調和的な造形だったのかもしれないという気がした。
自宅の設計というのは思い通りにできて羨ましいように思われるかもしれないが、どんなに入魂しても甘えは許されないし自問自答の戦いに苦しむことになる。この設計の真の課題は、機能合理性や空間快適性の追求ではなく形式美の追求にあったのではないかと想像される。最初の段階で最終的なイメージなりダイヤグラムがフィックスしてしまったとしたら、許される限界を求めて生活の見直しと諦めによって整理していくしかない。そうした試行錯誤状況があったのかはわからないが、つなぎの間と呼んでいる部分だけはどうしても譲れないと考え続けたところが形式へのこだわりと言った所以である。
つなぎの間は、月並みな効率対策的プランニング法から言えばネガティブな場所ということになると思うが、この部分は単なる視線貫通を超えた神聖で不可侵な場所であり、ポジティブな存在意義は確実にある。時が経って、モノが増えたり子どもが成長したりした際には少し危ういスペースになるかもしれないが、末長く使い続けていってほしいと願いたくなる住宅である。
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