所在地 :三重県亀山市関町新所1863 |
関宿は東海道と伊勢別街道の分岐点にあたるかつての要衝で、ひなびた風情の色濃い伝統的建造物群保存地区である。街道は左右に蛇行しながら登り下り、この宿場を越えていく。町並みは一定の領域感を保ちながらも徐々に展開し、向こうにそびえる地蔵院の大屋根の輪郭が、鈴鹿の山並みへと引き継がれ、先へ先へと旅人たちを導いていった。 この景観へのオマージュとして建てられた中学校である。校地の両端に残った特別教室棟と体育館を結ぶ弧状の「街道」。これに沿って多目的ホールや職員室の入った南棟と、教室群の入った北棟を向かい合わせる。奥の小山が借景になって、街道の風景そのままのたたずまいが生まれた。 構造は木造純ラーメン。多目的ホールの太い柱はすぐそこの山から伐り出したものだ。木の肌と根のあたりの力強い造形をそのまま建て込んで成長の象徴とし、集成材のラミナも三重県産を使った。杉とカラマツの柔らかい風合いが縦横に交錯する、さわやかな現代的空間が実現した。 惜しむらくは内部―外部の中間領域がいささか貧弱なことだ。特に「街道」への開き具合が弱い。オープンスペースはほとんど腰壁で区切られ、軒下の引きも一様に少なく、また用いられている尺度も本物の町並みよりはかなり大振りである。 地域の伝統的様式を創作に引用しても、もはや「様式主義」「懐古趣味」のレッテルが貼られることはなくなった。確かにその分建築の創作領域は広がったのだ。だが、それが擬態の域にとどまって、新鮮な再解釈や大胆な転換に到達できなかったなら、いずれまたそういうレッテルで封印される時が来るだろう。 かつて街道は「人間の道」だった。職人の仕事場、菓子屋の見世棚、街路に開いた土間、旅籠屋の出座敷、奥まって控える神社の鳥居・・今に残る町並みの風景に、かつての旅人たちの幻影を重ね合わせたならば・・・。まだ見ぬ先鋭かつ鮮明な解答の予感を、この作品は確かにたたえていたのだった。 |
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(富岡 義人) | |||||||||||||||||||||
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